土御門天皇陵

2013年05月22日 18時00分 正午の月齢:12.5  月名:十三夜  潮汐:中潮 月齢:12.5[十三夜] 潮汐:中潮
(最終更新日:2019年08月26日)
11年前に投稿 | 分類無用 | コメントはありません

2分ぐらいで読めます。

この記事は情報が古い場合があります。

自宅のすぐ近くにありながら、今まで一度も訪れていなかった土御門天皇陵。真綾とタンデムツーリング。

土御門天皇陵

鳥のさえずり以外はまったく聞こえない、静かな環境。まぁ自宅も同じなんですけど。

土御門天皇陵

土御門天皇ってどんな人か。Wikipediaで確認しました。

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年12月2日(1196年12月23日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。

略歴

建久9年1月11日(1198年2月18日)、父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚。立太子はしていなかった。同年3月3日(4月10日)、即位。事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、退位を迫り、承元4年11月25日(1210年12月12日)、異母弟の順徳天皇に譲位し、同年12月5日(12月22日)、上皇。

京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では正治元年1月13日(1199年2月9日)に源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。

承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移された。鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。

寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。

一説には日蓮宗の開祖日蓮は、この土御門天皇の皇胤であると言われている。

陵墓・霊廟

京都府長岡京市金ヶ原の金原陵(かねがはらのみささぎ)に葬られた。また、徳島県鳴門市には火葬塚がある。さらに、大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮では、祭神として祀られている。

 土御門天皇-Wikipedia

non data
大きな地図で見る

こういう史跡があちこちにあるのが、いかにも京都という感じなのでした。

古い記事・新しい記事

古い記事 [2013年05月20日]
新しい記事 [2013年05月25日]

コメントはありません

ごめんなさい、コメントフォームは閉鎖しています。

Translate »